夏のゲリラ豪雨は、全てを破壊するような降り方でしたが、ここ数日の雨は冷たく、何かを落ち着かせるような降り方。

最近シーチャのことばかりアップしているので、久々ふ〜にゃの事はどんな風にアップしてたかな、と思って読み直してみました(ブログ右下リンクの『時任進化論』2004年10月15日以前)。
老齢だったふ〜にゃの看病の事とか病気の事が多くて、最後はみなさんと見送ったような感じに。
シーチャは赤ちゃんから育てているからか、人なつこっさがありますが、ふ〜にゃはある程度年齢を重ねてから、うちに来ていただけに、どこか私との距離を達観して、
「いや、自分はいいですから、大丈夫ですから」
と言っているような、多少、他人行儀なところがあったことなど思い出しました。
ニンゲンの年齢と比較したら、私より上だった訳で、お互いのペースで生活していたような感じ。
その他、現在のこのブログサイトに変えたことで、時任ブログの変わったところは、以前は画像が1枚しかアップできなかったので、たまにしか載せていなかったのが、最近はできるだけ「百聞は一見にしかず」というところもあるので、アップするようになったこと。
その分、文章をあまり書いていないなと思い、今日は長文。
「忙しい」という言葉は、時には言い訳になる。
時間は作るもの。
それが文章の少なくなったこととどう関係するかというと、その『時間配分』が人それぞれとも言える訳で、時任の最近の変化がそこにも現れているのかな、と思ってしまいました。
文章を書く時間は少なくなったけれど、画像に頼る、という言い方になるかもしれませんが、その画像を撮りたいと思った時の時任の気持ちも含めて今はブログになっているのかな、と。
そういう点では、画像を撮るという行為は、これもまた記念だったり、芸術だったり、人それぞれ。時任にとってはもう一つの脳のような記憶の役割なのかな。
最近、記念に写真を撮ろうよと写真を撮ったのですが、記憶と記念とどこが違うんだ? とふと考えてしまいました。私の画像は記念写真のようにみんなに配るものではないので、かなり自分の記憶として、とってもラフですし、ボケてても、なんでボケたのかという、それを撮ったときの背景も自分の記憶とリンクできるので、全て含めて時間の切り取りとしてアップしてます。
人の記憶は曖昧で、自分の感情が絡むと、時には恐ろしく屈折する。
それを、画像を見る事で、忠実に過去にあった事実しっかりと思い返させてくれる。
「そうだよね、本当はこうだったよね」
と思い返すことが、結構あったりします。
本当に忘れやすいタチで、どんだけ時任の脳の記憶が曖昧なのか、と情けなくもなりますが…。
画像がなければ、そのまま美化されていたかもしれない。
良い思い出のまま残されるということの方が良い場合もある。
そりゃ、自分が死ぬときに、楽しかったり、幸せだったりした思い出がたくさんあったほうが良いです。
でも、他にも辛かったり、大変だったりしたことがあったからこそ幸せだったと思えた方が、自分が生きてきた道を振り返ることができるような気がして。
最近、記憶が変に美化されて捻じ曲げられそうな事があるので、画像を見直して現実に立ち戻ったりと、非常に役に立っています。